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Posted by あしたさぬき.JP  at 

2023年05月31日

初めてのお店にて

先日、ずーっと気になっていたお店、和幸さんに、

晩ご飯を食べに、初めて行ってきました。

メニューが豊富で悩みましたが、結局無難なところで・・・・

ハンバーグと唐揚げ定食にしました。











とっても美味しくて、また行きたいお店になりました。

今度はいつかな~・・・・・?







  


Posted by まこさく  at 14:57外食

2023年05月30日

ブログの写真とナポリタン

ブログの写真が送れなくなってしまい、メールの調子が悪いのかと思ったら、

写真の容量がいっぱいになっていたようで、

昨日はせっせと古いブログと写真を削除しました。

時間かかったわ~( 一一)

まだまだ消していかねば・・・・・。


さて、今日のお昼は、お姉ちゃんが(涙をボロボロ流しながら)切ったという玉ねぎがたくさん残っていたので、

久しぶりにナポリタンを作ってみました。

超テキトーに作ったけど、美味しかったです。





















  


Posted by まこさく  at 17:22料理ランチ

2023年05月29日

5月の父と兄妹会

先週の水曜日は、父と兄妹会でした。

今回は、東かがわ市のジョイフルで待ち合わせでした。

メニューを注文してから、完成した【父の兵隊の記憶】をみんなに渡し、

父は、料理が来るまでに読んでしまいました。

だいたい合っているかと尋ねると、

「上等兵になったのは4月ではのうて、昭和19年の11月じゃ。」・・・・とのこと。

ちゃんとしっかり読んでいることに感心しました。

戦友が来た時に一緒に撮った写真を、最後に載せたので、

それをじっと見ていました。

一つ、気になっていた仕事が終わって、スッキリです。


ランチは、ハンバーグのミックスグリル。





















父は、鰻の2倍盛り重。





























デザートは、こちら。

















美味しかったです。

また来月・・・・。


  


Posted by まこさく  at 18:22家族

2023年05月23日

豚の生姜焼き

昨日の夕飯は、豚肉の丁度いいのがあったので、生姜焼きにしました。

野菜もたくさん添えて。






















  


Posted by まこさく  at 18:56料理

2023年05月22日

冷ぶっかけうどん

今日のお昼は、ちょっと蒸し暑かったので、

乾麺の細うどんで、ぶっかけにしました。

きゅうり、卵焼き、ハム、ちくわ、ネギ、みょうが、白ごま、生姜・・と、いっぱいのせて。

美味しかった!

これからは冷たい麺類ですね。


  


Posted by まこさく  at 18:50おいしい~♡ランチ

2023年05月21日

5月の保護にゃん譲渡会

今日は、保護猫譲渡会があります。

かわいい保護にゃん達が、里親さんを待っています。

猫を飼いたい方は、覗いてみてはどうでしょうか・・・・・?
















































































































場所:高松市太田上町1037 廣田八幡神社内 広田会館  


Posted by まこさく  at 09:29生き物

2023年05月20日

上田うどんさん

かなり前に、1度だけ食べに行った上田うどんさんへ、

お休みの日に食べに出かけた。

混んでるので、昼遅めに行ったら、

お姉ちゃんがおススメの肉うどんが売り切れであった。

私はお肉はどうでもよいけど、ね・・・・。

冷のぶっかけで、カニかまの天ぷらととり天。

天ぷらが多いから、1玉で十分だった。

美味しかった! また、行きたいな。





















  


Posted by まこさく  at 18:48ランチ

2023年05月19日

父の兵隊の記憶 12 終戦

長崎の川棚基地で、潜水の道具が来るのを待っていたが、

それが来ないうちに、終戦になった。

玉音放送は聞いていない。

特攻で死ぬはずであったのが、実践に出なかったので助かった。

死なずに帰れると思った。


昭和二十年八月十五日、戦争が終わった。

その前日の十四日が誕生日だったので、十九歳になっていた。

海軍が全滅しているのだから、日本が負けるのはわかっていた。

アメリカが、船を早く沈めてくれたから助かったのだと思う。


それから1週間ぐらいで家に帰った。

県別に分かれて、一緒に帰った。

高松まで船に乗ったが、関門海峡で、米軍が百トン以上の船は動かさないようにしていたので

下関で降りて汽車に乗った。

それで岡山まで行ったが、屋根のない貨車であったので

トンネルを通ると、煙で顔が真っ黒になった。

岡山から宇野に行くと、復員の兵隊が一杯いて、

連絡船を何時間も待った。


宇野で、徳島へ帰る石橋と会った。

自分はもらっていなかったが、二日後に帰った石橋は、お金をもらっていた。


連絡船で高松に朝着いたが、負けて帰って来たのが恥ずかしくて、

最終の汽車まで待って三本松駅まで戻った。

そこから誉水の家まで、一時間半位歩いて帰ったのだが、

服や毛布などを背負っていたのでくたびれて、

途中、電気がついていた家に荷物を置かせてもらって、帰った。

家に着いたのが夜中近くで、皆寝ていた。


家に帰って、一月位後、三ヶ月の定期証書が届いた。

その額が七百七十円。その当時、千円で立派な家が建ったので、結構な金額である。

牛一頭が三十円であった。

三ヶ月経ってから、銀行に換金しに行ったら、国庫に納めるので換金できないと言われた。

それで、証書を銀行で破って捨ててしまった。

一年後に、換金できるようになったが、もうその頃はインフレで物価が上がり、値打ちが無かった。


石橋とは、それから後も連絡を取り合っていたが

最近、連絡が取れなくなって気になっていたら、

三年前に、九十三歳で亡くなっていたのが、やっとわかった。

船が沈んでからずっと親しくしていた戦友であった。

神奈川の方に住んでいたが、徳島へ帰って来た時には会いに来てくれたり、

自分も車で、神奈川まで会いに行ったことがある。


石橋は亡くなったが、自分はまだ十年位は元気だと思う・・・・。


































  
タグ :特攻終戦


Posted by まこさく  at 20:01家族

2023年05月17日

父の兵隊の記憶 11 特攻志願

四月に上等兵になり、五月には兵長になっていた。

船の中では下っ端であったので、飯の準備等をしなければならなかったが

兵長になるとしなくてもよいので、楽であった。


佐世保で防空壕掘りをしていたが、ある日、

「ごちそうを食わせるので、行かないか?」 と、特攻の募集があった。

どうせ死ぬのだから、ごちそうを食べて死ぬ方がええと、志願することにした。

防空壕掘りで、一着しかない服が汚れるのも嫌だったし・・・・。

その時、石橋は当直でいなかったので、一緒に行けるように、

石橋の名前も書いておいた。


五月七日、横須賀に着いた。

そこで、潜水服を着て、酸素ボンベをかついで海に潜る訓練をした。

人間機雷と呼ばれた、簡易潜水器を装着して、五メートル程の竹竿の先につけた棒機雷で

敵の船を爆破させる特攻であった(伏竜)。

志願した中で、潜水をするのが三分の一、整備を希望する者が三分の二であった。

船を爆破したら、自分も一緒に死ぬのである。

胸と足に鉛の重りをつけて、全部で六十キロ位あったが、海の中では楽に歩けるので

一時間に二キロは歩けた。

海の中は、昆布などが二~三メートルも伸びて、林のようであった。

装備をつけて海の中を歩き、空気を出したり止めたり調節する稽古を交替で、

五月から七月末までしていた。


練習中に、敵機グラマンが機銃掃射に来て、あわてて潜水服を脱いでいる時に、

「早脱がせ!」と石橋に喋っていたら、装具が口に当たって前歯が一本折れてしまった。

でも、その時は痛くなかった。


海の中で歩けるようになって、八月の初め、横須賀から長崎の川棚という特攻基地へ行った。



































  


Posted by まこさく  at 17:16家族

2023年05月16日

父の兵隊の記憶 10 船が沈んでから

矢矧が沈没して、長い時間海の中にいた。

四月のまだ寒い時である。

ずっと足を動かして浮いているのがえらくて、

「もういかん、もういかん・・・・」 と声を出していると、

近くにいた、同じ砲塔の班の山内二等兵曹が

しっかりせんかと、海藻を団子にした物を少し分けてくれた。

そうしているうちに、暗くなる前、駆逐艦が助けに来てくれるのが見えた。

それは本当に嬉しかった!

ロープを輪にして投げてくれて、それを脇の下に回し入れて、

引っ張り上げてもらった。

みんな、重油で真っ黒であった。

船に上がってからは、班長や他の人の世話をしてあげた。

動けない者もいた。

同じ砲塔の者は、みんな助かっていた・・・と思っていたが、

半分ぐらいになっていた。


船が沈んでから、佐世保の海兵団にいた。

十日間は、外出禁止であった。

敵にやられたのがバレるからである。


一週間後に、佐世保の山手に、防空壕掘りに行かされた。

二十四時間三交替制である。

同年兵の石橋も一緒であった。

与えられた服は一着だけで、洗い替えは無かったので、

外出する時は、前の晩に汚れた服を洗って、朝、生乾きを着て出かけた。

外出は、四日に一回で、外で飯を食べたりしたが、良い物は無かった。

隊の中で食べる方がマシであった。

玄米食も食べたが、量は少なかった。













  


Posted by まこさく  at 18:18家族

2023年05月15日

父の兵隊の記憶 9 矢矧沈没

四月三日、夜中に出港して、四日の朝には九州を離れ、

鹿児島の南方にいた。

米軍の戦闘機が絶え間なく飛んできて、爆弾を落としたり

機銃掃射で、ひっきりなしに攻めてきた。

多くの魚雷や爆弾が直撃し、

そのうち、至近弾が飛び込んできて、火薬に当たり爆発した。

供給所や火薬庫は全滅して、煙が噴き上げてきたので

ロープにすがって下へ降りて、右側の上甲板へ行くと、

そこには水が一メートル位来ていた。

それで、靴を脱がずに、すぐに海に飛び込み、二~三百メートル泳いでから

脚絆をのけて、靴を脱いだ。

船が沈む時は、二~三百メートル離れていないと巻き込まれるという事を

教わっていた。

飛び込んだ時に、すでに三百メートル位先に、水上機二機とカッター(手漕ぎボート)が

鈴なりになるほど一杯の人を乗せて逃げていた。

総員退去の命令が出ていたのかもしれないが、

伝令もやられていたのか、来なかった。

四月七日、午後一時頃に、矢矧は海に沈んだ。

時計が無かったので、時間は正確にはわからない。


船が沈んだら、逃げているカッターなどがグラマン戦闘機の的になった。

大和は、矢矧の後、一時間位で沈んだ。


海の中で、機銃掃射に狙われたが、それは海の上を真っ直ぐに進んでくるので

ひょいとかわしながら何とか頑張った。

四月のまだ寒い中、五時間位海にいた。

もうえらくて、死にそうだった。

暗くなったら死なないかん・・・・、そう思った。



























  


Posted by まこさく  at 19:24家族

2023年05月14日

父の兵隊の記憶  8 三日間の休暇

佐世保で、船の修理をしている3ヶ月の間に、

休暇が三日間だけあった。

家が近い者は、家に帰ってくるようにと言われたが、

三日では行き帰りの時間がかかるので、帰れない。

それで、休暇の日を知らせるハガキを家に送った。

すると、三日間の休みの初めの日に、親父が訪ねて来てくれたので

駅前の旅館で一緒に一泊した。

日本が負けるとは思っていない親父に、

「隠れとって、一遍にやるんか?」と聞かれたが、

「今度出て行ったら死ぬんで。」とは、言えなかった。

親父が持ってきてくれた餅は、硬くて食べれなかった。

若い者が、船の中で餅を焼いて食べたりはできんので、

班長の下宿に持って行った。


昭和二十年四月、沖縄に、動ける船が攻撃に行った。

駆逐艦八隻と、戦艦大和、矢矧である。

日本には燃料が無かったので、行きの燃料だけで出発した。
























  


Posted by まこさく  at 21:21家族

2023年05月13日

父の兵隊の記憶 7  サイパン レイテ

昭和十八年十月から、一年半の間、矢矧に乗っていた。


十九年一月初め、シンガポールへ初めて行った。

シンガポールまで、六日かかった。

そこで、昼間だけ乗組員の半分ずつ上陸させてくれた。

船の中で、現地のお金と交換してくれたので、それで買い物をした。

日本には物が無かったが、そこには何でもあった。

それも安く買えたので、同年兵の石橋と二人でバナナを一円分買って、

たくさん食べたが食べきれないので、担いで歩いた。

現地の人が、タバコを欲しがるので、自分は吸わないが、

船の中でほまれのタバコを四銭で買って行くと、それが七円で売れた。

タバコは、二十本までなら持たせてくれた。

マンゴやパパイヤ等、果物は安かった。


フィリピンのマニラにも行ったことがある。


連合艦隊が戦争に出る時、燃料船が付いてくるのだが、

十九年六月、サイパンへ攻撃に行った時に、後ろから来る燃料船が

米軍の潜水艦にやられてしまった。

米軍の戦闘機が一回空襲に来て、航空母艦二隻もやられてしまい、

矢矧は呉まで引き上げた。

勝ち戦は無かった。


サイパン作戦の後、内地で燃料補給をして、陸軍の兵隊を沖縄の中城まで送り届けた。

日本には燃料が無い。

ボルネオで石油が出るので、ボルネオの近くで練習をしていた。



十九年十月、フィリピン奪回を目指して侵攻するアメリカ軍を、

日本海軍が総力を挙げて迎撃するために、連合艦隊がレイテ湾に向かった。

艦隊は、一緒に行動していた。

フィリピンは島が多く、島と島の間はスピードが出せないので

潜水艦や戦闘機に攻撃された。

昼間は空襲ばかりで、夜は潜水艦が待ち伏せしており、

一晩で七隻ぐらいやられた。

戦艦武蔵は、空襲で沈没した。

矢矧は、穴だらけになったが、木栓を打って水を止めながら

フィリピンから内地まで引き上げてきて、

佐世保で三ヶ月位かかって船を修理した。
































  


Posted by まこさく  at 18:44家族

2023年05月12日

父の兵隊の記憶 6  砲塔

矢矧の中で、最初の持ち場は供給所であった。

下にある弾火薬庫から上の砲塔へ火薬や弾薬を押し上げる仕事である。

火薬は軽いので、手で押し上げるが、弾薬は直径十五センチ位だったが、

四十五キロ位あり、重かったので、機械で上げていた。

そこでは一つの班が十二人であった。

下っ端の兵隊が、弾火薬庫や供給所で働いていた。

藤原は、弾火薬庫にいた。


サイパン作戦が終わってから、(船が沈む五ヶ月前) 供給所から二番砲塔へ移った。

砲員は、十八人であった。

弾薬と火薬をつめて、蓋をして、上の方にいる砲術長が引き金を引いた。


レイテ作戦の時には六番砲手であった。

供給所から手で差し上げてくる火薬を取って、五番砲手に渡すのである。

後に、一番力のいる4番砲手になった。

それは弾をこめる仕事で、装填棒を腹に押し当てて弾を押し込むのである。


砲塔は、鋼鉄板で囲まれていたので、機銃掃射が来てもへっちゃらであった。


船が沈む前は、電気が来なくなっていたので、手で弾を込めて、勝手に打っていた。

米軍の飛行機が、絶え間なく来ていた。

































  
タグ :矢矧砲塔


Posted by まこさく  at 18:57家族

2023年05月10日

父の兵隊の記憶 5  矢矧の中で

矢矧の船の中で、お風呂は週に一回入ることができた。

海水の風呂である。

海水では石鹸が泡立たないので、真水をくれた。

真水は洗面器に三杯くれるので、一杯で体を洗って、残り二杯できれいに洗い流した。


洗濯は、自分の服は自分で洗っていた。

上甲板の一番前で、小さい洗面器を使って、真水で石鹸を使って洗った。

ゴシゴシこすって洗い、残りご飯を入れた袋をこすりつけて糊付けをした。

洗った服は紐に吊るすのだが、冬は手がかじかんで、その紐を結わえるのに苦労した。

船が南方にいる時は、スコールが毎日来るので、その雨水で洗った。

そんな洗濯の仕方も、藤原が教えてくれた。

散髪も藤原がしてくれたし、色々と藤原には世話になった。


船の中には医務課もあって、六~七人が仕事をしていた。

軍医も二人いた。


矢矧には、飛ぶのが遅い水上機が二機のっていた。


船から船に何かを知らせる時は、手旗信号で通信していた。


兵隊の給料は、二等兵で一月五円、一等兵で十一円、下士官はもっと多かった。

船に乗ったらどうなるかわからないので、給料は家族渡しであった。

でも、給料とは別に海軍では航海手当がついて、それが給料より多くて

自分がもらえた。


船に乗る前は、転勤手当ももらった。

佐世保から鹿児島へ行ったときは九十円もらって、

戦争が終わる前に兵長になって佐世保から横須賀へ行った時には

二百円もらった。給料の約十ヶ月分であった。


船の中で、週に一度、お酒を飲んでも良い日があった。

だが、自分は未成年でお酒が飲めないので、代わりにお菓子 (おかきやビスケット等) をもらった。

上の人が食べないお菓子をくれるので、帽子缶に一杯になった。

自分が一番若いので、大事にしてくれた。


居住区から百メートル離れた後甲板に、訓練する所があり、

朝晩そこで訓練をしていた。

中甲板より下が居住区で、上に上がる時は急な階段を駆け足で上がった。


戦闘配置についていない時は、割と気楽であった。


でも、内地にいる時は、週に一度くらい、兵長にお尻を叩かれていた。

一等兵らを集めて、何か文句をつけて、木の棒で五回位たたくのである。

お尻が内出血で真っ黒になり、恥ずかしいからお風呂に入れなかった。

あれは、ようなかった・・・・。


後に、叩いていた人達は、皆亡くなっていたのがわかった。



写真は、今日食べに行った丸亀製麺のぶっかけです。

美味しかった!



































  
タグ :矢矧兵隊


Posted by まこさく  at 21:16家族

2023年05月09日

父の兵隊の記憶 4 軍艦矢矧 

同期の兵隊で、福岡県出身の藤原という男が本隊にいた。

その藤原が、「弱ったがー、軍艦に乗らないかんようになった。

三人割り当てがあるから、一緒に行ってくれ。」と、泣くように言ってきた。

それで班長に、自分も軍艦に乗りたいと申し出た。

でも班長は、 「今船に乗ったら、生きては帰れんからやめておけ。」 と言って反対した。

それでも行きたいと言うと、渋々 「勝手にせぇ」 と許してくれた。

本当は、班長の使いが嫌であったので、船に乗ろうと志願したのである。


十月十日過ぎに鹿児島を出て、佐世保へ向かった。

佐世保で、軽巡洋艦矢矧に乗ることになった。

全長 約百七十メートル、約八千トンの軍艦で、八百人位が乗っていた。

ご飯を作る人もいて、船の中では、飯はしっかりあって、腹一杯食べる事ができた。

ご飯にみそ汁、漬物、時々魚のおかずが出た。

時化で荒れた時は、皆あまり食べないのでたくさん残った。

南方に居る時は、パパイヤやスイカの白い部分で作った漬物を食べた。

兵隊と下士官は、外米(サイゴン米)を食べ、

士官は日本米であった。

朝昼晩と、飯も汁もぬくぬくで、若い兵隊が準備して

班ごとの机で食べた。(十八人)

茶碗やお皿は海水で洗い、それを蒸気で消毒してくれる。

ご飯の材料は、食料船が持ってきていた。

大体南方にある物ばかりであった。


朝、顔を洗うのは二人ずつで、居住区から後甲板まで行って洗顔するのに

百メートルの距離があり、若者は順番が最後なので

飯の支度をするのが間に合わなくなるから、

船に乗っている間は、顔を洗ったことも歯を磨いたことも無かった。



写真は、父と兄妹会でのパスタランチです。







  
タグ :軍艦矢矧


Posted by まこさく  at 17:57家族

2023年05月07日

父の兵隊の記憶 3 鹿児島

昭和十八年七月二十五日に鹿児島の航空隊へ到着。

海を埋め立てた、桜島が見える場所で、

予科練が飛行機の練習をする、赤とんぼ (日本軍の練習機は、目立つように橙色に塗られていたことから

別名「赤とんぼ」と呼ばれていた) の飛行場を作っている最中であった。

そこで、赤とんぼが海の上へ飛び立つので、何かあったら救助に行くのである。

だが、自分がそこにいる間には、飛行場は完成しなかったので、救助の仕事は無かった。


鹿児島に着いてから、本隊で毎日泳ぎの練習をした。

桜島に向かって、平泳ぎでゆっくり一時間泳いで

また一時間かけて泳いで帰った。

早さを競うのではなく、長い時間泳げるようにするためであった。

誉水に居た頃は、泳いだことが無かったので、

後に船が沈んだ時に、この練習のおかげで助かったと思う。



そこには しゅうていこ (舟艇庫? 船を置いてある所) と、兵舎が二つ、飯炊き場があるだけで、

一番若かったので、舟艇庫に配属された。

朝昼晩と三回往復して、二キロの道のりを、飛行場の横の兵舎までご飯を届ける仕事をしていた。

ご飯やお汁はアルミの容器に入っており、蓋にはおかずが入っていた。

自転車の箱にご飯を積んで、分隊に寄って用事があるかを聞くのである。

兵舎の横で、物を販売しており、班長がそこで買った品物を

ご飯を入れる箱に入れて、班長の下宿まで届ける使いもしていたが、

買った品物を隊から外に持ち出すのは禁止 (隊の中で買うと、税金がいらないので安い) であったので、

途中で箱の中を検査されないかと、いつもビクビクしていた。

もし見つかっても班長の物だとは言えないからである。

自分達は、舟艇庫で寝泊まりして、日曜だけ外出が許され、

班長は、二日に一回下宿で寝泊まりしていたので、

下宿の人に、買った物を渡していたのではないかと思う。

外出した日曜日は、その下宿で昼飯を食べた。



※ 父の話す言葉の意味が分からず、よくよく聞き直して

  しゅうていこ=舟艇庫 ではないかと勝手に解釈した。


写真は父と兄妹会のランチ、トンカツ定食です。















  


Posted by まこさく  at 18:36家族

2023年05月06日

父の兵隊の記憶 2

昭和18年4月、いよいよ入団の日を迎える。

皆が旗を持って、水主神社まで送ってくれた。

木の階段に上がって、何人かが祝辞を述べ

自分も最後に挨拶をした。

「お国のために頑張ってきます!」


その後、自転車の後ろに乗せてもらい、三本松駅に向かった。

駅では、一緒に入団となった、大山のひろしさんも来ていて、

皆が万歳、万歳と言って送ってくれた。

その時、兵隊じいさん (昔、海軍で働いた人) が、行き方がわからない自分達を

長崎の佐世保まで一緒に行って、道案内してくれた。

家を出る時に持たせてくれた弁当の中に、ゆで卵がいっぱい入っていて

それ以来、ゆで卵はあまり好きでは無くなった。


佐世保には、四国、九州で一万人位集まった。


そこで分隊に分かれ、十八人ずつ十五班になって

三ヶ月間、新兵教育を受けた。

年の頃、二十歳位が多かった。

海軍ではあったが、陸軍の兵隊のような、

銃を担いで走ったり、射撃訓練をしたりした。

鉄砲で三百メートル先の的を狙っての実弾射撃や、

拳銃で三十メートル先の的を撃つ練習をした。

また、古い船で艦務実習をして、

陸でも、船でも戦えるように練習をした。


新兵教育中に、母が一度面会に来てくれたことがある。

この時も、兵隊じいさんが連れてきてくれた。

その時、母がくれたお金の五円を、

居住区の帽子缶に入れておいたが、

いつの間にか盗られて無くなっていた。

多分、没収されたのだと思う。

そのことは誰にも言えなかった。


三ヶ月の教育を終えて、各自行き先を割り当てられ、

鹿児島の航空隊へ行くことになった。

七月のことである。



写真は、父と兄妹会でのランチ、ハンバーグ定食です。












  


Posted by まこさく  at 17:38家族

2023年05月05日

父の兵隊の記憶 1

戦争の体験談を、父が話してくれることがあったが、話が飛び飛びなので、

最近、毎日電話した時に、よくわからなかった事を詳しく聞いている。

それを忘れないように、書いておこうと思う。

現在96歳、記憶力バッチリの父である。


若い頃、毎朝軍事訓練に行って、帰ってから田んぼの仕事をしていた。

そんな頃、父の住んでいた誉水地区に、兵隊に行く十人の割り当てが来た。

「お前、2番そうやけん、兵隊検査に行け。」と言われ、二男らが十人、津田まで検査に行った。

学科試験や身体検査を受けた。


それから、炭鉱の勤労奉仕に、四十人の割り当てが来たので、

福岡の三井炭鉱まで出かけた。

炭鉱では、エレベーターで二百メートル下へ降り、四十五度傾斜の所を

鉄の車に乗って十五分進んだ後、二十分歩いて現場へ到着した。

現場へ着くまで約一時間かかっていた。

一人前の鉱夫に、助手が二人ついて採掘をしていた。

採炭する時は、一日四時間程で終わったが全身真っ黒になった。

その仕事を四十日間終えて家に帰る時、日当を一日につき三円五十銭もらったが、

当時の日当が一円位だったので、とても嬉しかった。

勤労奉仕なので、手当てが出るとは思っていなかったから、なおさらである。



家に帰ると、海軍の合格通知が届いていた。

それが正月前のことである。

誉水で、二人合格していた。


通知が来たら、もう行かんとは言えない。

昭和十八年の四月に入団することになった。

十六歳八ヶ月に入団である。



こちらは、父と兄妹会で食べた光琳さんでの父のお気に入り、焼肉定食。







  


Posted by まこさく  at 18:09家族

2023年05月02日

ちゃこ、天国へ

昨日の晩、ちゃこさんが逝ってしまいました。

約16歳。

長い間、お疲れさまでした・・・・。

いつもいた所にいないって、寂しい・・・・・


  


Posted by まこさく  at 17:11生き物