2023年05月10日
父の兵隊の記憶 5 矢矧の中で
矢矧の船の中で、お風呂は週に一回入ることができた。
海水の風呂である。
海水では石鹸が泡立たないので、真水をくれた。
真水は洗面器に三杯くれるので、一杯で体を洗って、残り二杯できれいに洗い流した。
洗濯は、自分の服は自分で洗っていた。
上甲板の一番前で、小さい洗面器を使って、真水で石鹸を使って洗った。
ゴシゴシこすって洗い、残りご飯を入れた袋をこすりつけて糊付けをした。
洗った服は紐に吊るすのだが、冬は手がかじかんで、その紐を結わえるのに苦労した。
船が南方にいる時は、スコールが毎日来るので、その雨水で洗った。
そんな洗濯の仕方も、藤原が教えてくれた。
散髪も藤原がしてくれたし、色々と藤原には世話になった。
船の中には医務課もあって、六~七人が仕事をしていた。
軍医も二人いた。
矢矧には、飛ぶのが遅い水上機が二機のっていた。
船から船に何かを知らせる時は、手旗信号で通信していた。
兵隊の給料は、二等兵で一月五円、一等兵で十一円、下士官はもっと多かった。
船に乗ったらどうなるかわからないので、給料は家族渡しであった。
でも、給料とは別に海軍では航海手当がついて、それが給料より多くて
自分がもらえた。
船に乗る前は、転勤手当ももらった。
佐世保から鹿児島へ行ったときは九十円もらって、
戦争が終わる前に兵長になって佐世保から横須賀へ行った時には
二百円もらった。給料の約十ヶ月分であった。
船の中で、週に一度、お酒を飲んでも良い日があった。
だが、自分は未成年でお酒が飲めないので、代わりにお菓子 (おかきやビスケット等) をもらった。
上の人が食べないお菓子をくれるので、帽子缶に一杯になった。
自分が一番若いので、大事にしてくれた。
居住区から百メートル離れた後甲板に、訓練する所があり、
朝晩そこで訓練をしていた。
中甲板より下が居住区で、上に上がる時は急な階段を駆け足で上がった。
戦闘配置についていない時は、割と気楽であった。
でも、内地にいる時は、週に一度くらい、兵長にお尻を叩かれていた。
一等兵らを集めて、何か文句をつけて、木の棒で五回位たたくのである。
お尻が内出血で真っ黒になり、恥ずかしいからお風呂に入れなかった。
あれは、ようなかった・・・・。
後に、叩いていた人達は、皆亡くなっていたのがわかった。
写真は、今日食べに行った丸亀製麺のぶっかけです。
美味しかった!

海水の風呂である。
海水では石鹸が泡立たないので、真水をくれた。
真水は洗面器に三杯くれるので、一杯で体を洗って、残り二杯できれいに洗い流した。
洗濯は、自分の服は自分で洗っていた。
上甲板の一番前で、小さい洗面器を使って、真水で石鹸を使って洗った。
ゴシゴシこすって洗い、残りご飯を入れた袋をこすりつけて糊付けをした。
洗った服は紐に吊るすのだが、冬は手がかじかんで、その紐を結わえるのに苦労した。
船が南方にいる時は、スコールが毎日来るので、その雨水で洗った。
そんな洗濯の仕方も、藤原が教えてくれた。
散髪も藤原がしてくれたし、色々と藤原には世話になった。
船の中には医務課もあって、六~七人が仕事をしていた。
軍医も二人いた。
矢矧には、飛ぶのが遅い水上機が二機のっていた。
船から船に何かを知らせる時は、手旗信号で通信していた。
兵隊の給料は、二等兵で一月五円、一等兵で十一円、下士官はもっと多かった。
船に乗ったらどうなるかわからないので、給料は家族渡しであった。
でも、給料とは別に海軍では航海手当がついて、それが給料より多くて
自分がもらえた。
船に乗る前は、転勤手当ももらった。
佐世保から鹿児島へ行ったときは九十円もらって、
戦争が終わる前に兵長になって佐世保から横須賀へ行った時には
二百円もらった。給料の約十ヶ月分であった。
船の中で、週に一度、お酒を飲んでも良い日があった。
だが、自分は未成年でお酒が飲めないので、代わりにお菓子 (おかきやビスケット等) をもらった。
上の人が食べないお菓子をくれるので、帽子缶に一杯になった。
自分が一番若いので、大事にしてくれた。
居住区から百メートル離れた後甲板に、訓練する所があり、
朝晩そこで訓練をしていた。
中甲板より下が居住区で、上に上がる時は急な階段を駆け足で上がった。
戦闘配置についていない時は、割と気楽であった。
でも、内地にいる時は、週に一度くらい、兵長にお尻を叩かれていた。
一等兵らを集めて、何か文句をつけて、木の棒で五回位たたくのである。
お尻が内出血で真っ黒になり、恥ずかしいからお風呂に入れなかった。
あれは、ようなかった・・・・。
後に、叩いていた人達は、皆亡くなっていたのがわかった。
写真は、今日食べに行った丸亀製麺のぶっかけです。
美味しかった!
Posted by まこさく
at 21:16
│家族